こうして私の道が狂ってしまった。

2月26日(水)有給あけで、めずらしく定時で出社、貰った仕事は、時間もゆっくりしたものだった。10分前、ベストタイムで荷物を積む会社に着き、予定時間ちょうどから作業が始まり、私はノンビリ缶コーヒーを買って車内で飲もうとしたら、急にムカムカしてコーヒーを飲むことが出来ず、車内で戻してしまった。戻したら少し収まったので、口をすすごうと下車、5メートルほど歩いたところで、周りが見えなくなってしまった。

気がつけば、手はついたものの、顔から倒れてしまっていた。やけにコンクリートが冷たく気持ちよかった。「格好悪いな」というのが、その時の正直な気持ちでしたが、どうしても自分で立つことが出来なかった。すぐにそこの会社の人が来てくれて、「救急車を呼びますか」と聞いてくれたとき、そうか、以前より「気をつけないといつかは成人病になりますよ」と言われていたその時が来たかと、案外冷静に感じて受け入れている自分がありました。すぐに、「お願いします」とその若者に言ったのが良かったと思います。

私にまだ生きるチャンスを貰ったとしたら、まず、車内でなく、人目のある車外で倒れたこと(早く気がついてもらえた)。第2に搬送された病院に、専門医がスタンバイしていてくれ、すぐ処置が出来たこと。(後で聞いた話によると、大阪でも循環器では評判のいい病院だった)

病院には11時頃に着いたのではないかと思う。冷や汗がいっぱい出ていたのを覚えている。まず名前や家の電話番号などを聞かれ、書類3枚にサインをさせられる。「アアー テレビなんかでよく見るな」なんてボヤーと考えながら、日本語とは思えないような自分の名前を書いた。「上着はハサミで切りますよ」と言うので、これもドラマみたいだななんて思いながら、もう手も足も自分の思うようには動かせなかった。下半身の毛をそられながら、「ひょっとしたら、もう子供達には会えないのかもしれない」と、さっきのサインと結びついて弱気なことばかり考えていた。

「カテーテル治療が現在では一番有効で、負担のない治療で、数時間かかります。私たちも頑張りますのであなたも頑張ってください」、と言うようなことを言われたと思う。あの先生の言葉は、随分心強い言葉だった。こうして局部麻酔をして、私の運命の治療が始まった。

動くことが出来ないので、だんだん苦しくなるのは、自分のためだから頑張ることは出来るけど、耳が自由に周りのそれも自分にとって都合の悪い言葉ばかり探してしまうのには、一番困った。「大きな固まりやな!」とか「これは重症やな」「うまくいかんな」とか「少しぐらい残っても仕方ないかな」なんて、先生方の専門用語に混じって、私にもわかるこれはダメかと言わんばかりの言葉が私をまるで地獄に突き落とす。

根性で決まると自分に言い聞かせ、わりかし冷静に自分に対して「負けるなよ!」と言っている自分を間近に見ることが出来た。こんな風に書けばクールに聞こえるが、そのほとんどの時間は、ただ目をつむり、「俺は死なない、死ねない、先生失敗しないで!」と念じていたのが本当のところだ。

はっきりした時間はわかりませんが、治療は4時間以上かかったはずです。その間に、「家族との連絡はまだ取れないのか」という言葉を何度か聞いた。妻はこんな事になっているとは夢にも思わず、長男におかずを届けに神戸に行っているはずだし、長女は徹夜で仕事をしているはずだから、今頃は寝ているはずである。この事をこの場の人たちに私は頭ではわかっていても、伝えることがどうしても出来ませんでした。


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