楽しく生きる、振り返ると道が  17才〜21才


自転車旅行から帰った後は、放浪癖がついてしまったようで、大阪が嫌になり田舎に帰ったが、田舎でいつまでもお気楽な日々を過ごす身分では無いので、土方や山仕事の助手などやってみたが、3日と続かない、やる気のなさでした。

私の村の若者は皆、都会に行ってしまい遊び相手が居なく、隣村の青年団は昔のように若者は(男のみ)青年クラブに毎日泊まり、酒をのみ、アホ話に花を咲かせ団結を深める、そんな姿が新鮮で、同級生も居るので私も毎日気分良く入り浸っていた。

***定期便の助手に***

そこに来る先輩で、偉そぶらないほんまに気分の良い人が「俺の行ってる会社に来ないか」と誘ってくれて、新宮ー大阪間の定期便の助手として勤める事になった。

この時は運転免許はなくトラックの助手だったが、実に面白かった。今では考えられない様なトラックで、もちろんパワーハンドルなど無いので、カーブなどハンドルを切るのは案外簡単だが、ハンドルを戻すのに力が要り命がけだった。道はもちろんデコボコを通り超した川の中のような道で、パンクなどはほとんど毎航海で、一番ひどかったのは片道で5回もパンクした事があった。アクスルといって前輪のタイヤを取り付けてる鉄のかたまりの様な心棒が折れたこともあったし(車はもちろんひっくり返った)、荷台がシャーシから外れて斜めのままロープでくくり、大阪まで走ったこともあった。タイヤ チェ-ンなど無かったから、雪が降ったらタイヤの下に毛布をしいて、進んだ分歯止めをしながら少しずつ峠を乗り越えたりしたものです。

そんな外での寒い仕事や荷物の積み降ろしが助手の仕事でしたが、運転手の人は良い人だったので、嫌な想い出が一つも浮かばないのが、読者にとって面白くないのでは無いでしょうか。免許証も無いのによく運転もさせてもらい、十津川の警官に何回も「早よ免許取れよ」と言われたが、今みたいに逮捕するとか、罰金だとか言わず許してくれる良き時代だった。


同級生と田舎の最高峰 蔵光山頂にて(19才)

助手の気楽さから、この頃は山に行くのが最高の楽しみで、そのためのトレーニングで近くの山に砂を詰めたリュクを背負ってよく登った。

そのうち自転車旅行の写真や山の写真を焼き増しに行った店のご主人に気に入られ、お世話になることになり、ここで私がデブになり、初めて一方通行でない恋愛を経験することになる。


白馬岳(19才)

槍が岳登山に備え、20Hの砂を担いで、那智の烏帽子岳に(21才)

槍が岳 槍沢にて(21才)

槍が岳の帰りにバスで白川郷に行ってみた。

店の前で(20才)

ヌヌ三度目の職種変え 写真店にネネ

19才になった頃、自転車旅行の時の写真のプリントでお世話になっていた、写真屋のご主人が私を気に入ってくれ「運転手の仕事は危ないから、住み込みでうちに来ないか」と言ってくれた。

写真は大好きだったので、三度目の職種変えとなった。

給料は随分下るが、仕事の時間は決まっているし、三度の食事の心配は無いし、冷や汗をかく危ない目に遭うことも無いし、好きな写真を自分でやる事は出来るし、母親も、毎日心配しなくて済むので大賛成してくれたので、お世話になる事になった。

今までみたいな作業衣でなく、ブレザーを着て、店で初めての接客である。最初は「いらっしゃいませ」が言えなかったが、馴れると案外平気で言え私にピッタリの仕事だった。

当時カラー写真が始まったばかりでTN64Uと言って、今思えば感度の悪いフイルムだったが、カメラが誰でも簡単に操作出来るようになり、(バカチョンカメラが各社発売)誰でもカメラを安く買えるようになり、白黒写真より美しく写るカラー写真に、一般の人もみんな綺麗な服に着替えて撮りまくった時代だった。

カラーの現像、焼き増しの出来る店は、メーカー直営のカラーラボと言って近畿に2〜3カ所にしか無く、新宮市の他の写真屋さんは、今で言う取り次ぎ店しかできなったが、この店のダンナサン(奥さんはじめ、従業員は皆そう呼んでいた)は新し物好きで、新宮市の小さい写真屋さんだったが、店を改造して高価なカラー用の機械を入れてしまった。そんな人だったので、私には理想的な店だった。

頑固な旦那さんは完璧な仕事をする人だったし、我々にも要求したので、手抜きの全く無い店で、カラーの現像は特に厳しく、滅多に我々は触らせて貰えなかった。

外回りもあり、国鉄のキヨスクと勝浦や本宮など観光地の土産物屋さん、旅館などほとんどの売店のフイルムは一手に引き受け、富士フイルムの関西圏での売り上げは常に1番2番の実績だったので、先輩と二人で忙しく楽しく走り回ったものです。

旦那さん達ご夫婦は、戦前大陸で大きな呉服店をしていて、敗戦で引き揚げてきたので「豪快でおおらか」そんな人だった、私は快適で楽しい毎日だった。

奥さんの料理は今まで食べたことの無い豊富なメニューで、美味しくて毎日王様になったようなご馳走で、私はここで、少しづつ太り、最終的に20キログラムほど太ってしまった。(その後35年ほど、デブで悩む事になる)

仕事は楽しくてしょうがなかった。

また、初めて恋をして、夜になり家中が静かになったころ、ソォーッと店のシャッターを開け、店の車を持ち出し、デートした事が何度かあった(その頃は車があれば結構女性にもてた)。

本物?の恋愛ゴッコを経験して、少し大人になったのはたしかだが、私はどうも女性に思いやりがないようで、常にフラれてばかりだった。


太り始めた頃

そしてある時槍ヶ岳に登り、下山中に持っていた週間誌を読んだのがきっかけと(あなたもヨットが作れます、と言う記事)なりヨット作りに走り出してしまう訳だが、写真屋さんの給料では、例え番頭さんに(店では1番上の人)なっても、無理なので、旦那さんに「どうしてもヨットがほしいので、遠洋の漁船に乗って稼ぎたいから店を辞めたい」と言ったところ、「君は親御さんから預かった大事な身体だから」と大反対されて、大阪の親のところまで旦那さんに付添われ送り届けられた。


新潟県瓢湖

‥(^^;)またまた大阪へ(^^;)‥

昭和42年(21才)大阪では鉄工所に勤めたが、親と一緒の安心感からか放浪癖が頭をもたげ、九州方面ににブラッと出かけたり、急に雪が見たくなった、と列車に飛び乗り新潟に行った事があった。

この時は自転車旅行で世話になった人を訪ねる、初めての旅になった。

お嫁に行っても年賀状のやり取りがあったその人をいきなり訪ねると、ご主人は私を明らかに迷惑そうに対応。その人は留守で会えないので、実家の方に訪ねたが、お世話になったお母さんは亡くなっていて、親父さんがこれ又迷惑そうにしてたが、寒いところをわざわざ来たのと、他意が無いのを分かってもらえたようで宿を紹介してくださり、高校生だった娘さんに宿まで案内してもらった。

あくる日はその娘さんと瓢湖に白鳥を見にくいデートを許してくれたが、何しろ高校生と話した事はないので、何を話して良いかわからず、退屈な男と思っただろう。でもいまだにその娘とは大事な友達として続いているのだから、縁とは不思議としか言いようがない。

初めて見る大雪が珍しく写真を撮りまくった。


初めての吹雪を経験
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