楽しく生きる、振り返ると道が  誕生〜17才


生後 10ヶ月目の私
生後 10ヶ月目の私

‥健康優良児‥

昭和21年12月(1946年)、三重県の南端 南牟婁郡相野谷村(現 紀宝町)に貧乏な家の長男として生まれる。

健康優良児として表彰されるなど、まるまると元気な赤ちゃんだったそうだ。

私が生まれた谷あいの村は今でも貧乏だが、当時は戦争の被害こそ無いものの、仕事の無い人が多く食べるのがやっと、と言う家庭が大半だった様だ。

中でも我が家はまさにその典型だった。若い頃から大阪で働いていた父は、戦争で焼け出され大阪から田舎に帰り、その頃では珍しい恋愛結婚をして私が生まれた。

しかし、腕の良い鉄工の仕上工も田舎では仕事は無く、長男でも無いから田畑もなく(当時、財産は長男が全て相続)親戚の田植えや稲刈り、山の手入れや炭焼き、土木工事、それこそ両親は何でもして、我々兄妹を育ててくれた。

でも、どんなに貧乏をしていても、両親の喧嘩など一度も見た事はなく、仲の良い両親だったことが私のラッキーな生き方のベースなのかも知れない。

妹は真面目で努力家だが、私は荒っぽくいたずらっ子で、いつも母親をハラハラさせて居たようだ。いくら叱ってみても聞くような子でなく、手に余ったら親父にバトンタッチして叱られる訳だが、殴るなどされた事は一度もなかった。

親父は叱るとき「三回までは我慢したるから」と言い、いつも「これで二回目やぞ」とほとんど許してくれたが、何回かは本当に叱られ、家からほうり出された。街頭など無い真っ暗な道をシューンとして婆ちゃんの家に行ってると、頃合いを見て母親が迎えにきてくれ、一緒に謝って貰い、一件落着。

妹3才 私5才
妹3才 私5才

学校の近く(左端 9才)
学校の近く(左端 9才)

!!やんちゃ坊主!!

写真を見れば分かるが(左端が私)当時、貧乏人の履物は「わら草履」が定番で、低学年では靴を履いてる子供は少なかった。(右から2番目の子は、都会からの転校生で金持ちの坊ちゃんだった)

低学年の頃は毎日ボタンはちぎれ、ひどい時は袖までちぎれても暗くなるまでみんなと遊ぶ、先輩に泣かされて帰る事もしょっちゅうだった。

しかし朝になったら、昨日ちぎれたボタンと袖はちゃんと付いてる。知らずにいたが、写真をみると、服はボロだがボタンはどの写真もちゃんと五こ付いている。一枚しかない制服を文句一つ言わず毎晩ちゃんと修理してくれた母の几帳面さに、今さら頭が下がる思いだ。良い両親を持ってよかった。

低学年の頃は私より小さいのに すばしっこい男がおり、その子にいつも泣かされてばかりいましたが、四年生の終わり頃だと思うが、いつもの様に喧嘩をしたら、どうした弾みか 勝ってしまった。

▲▲ がき大将 ▲▲

五年生になったらもう堂々たる″がき大将三人衆″の一人になっていて、「昨日悪い事をした者は職員室に来なさい」と言うアナウンスがあったら、私は間違いなく出席する熱心な生徒でした。

喧嘩もよくするので、先生が職員室の机を片付けて真ん中にリンクを作り「そんなに喧嘩をしたいならここでやれ」と言ってくれたので、先生公認の喧嘩を2度もやったのは後にも先にも私一人らしい。思えばあの頃は先生も余裕が有ったみたいだ。

遊びにしても見える限りの山が遊びの場所で、先輩の後を追っ掛けて、夕方道が見えなくなるまで、遊び回っていられる良い時代だった。流石に農繁期はどの子供も手伝いをさせられたが、その他の時間は勉強ではなく村の全ての子供(時には青年も)が集まって、向かい合う山を陣地に二手に分かれチャンバラゴッコや、捕まえるまでは何処までも追いかける探偵ゴッコなど、荒っぽい遊びばかりしていた。

女の子は別で、今では何をしていたのか見当もつかない。

3年生を送る会で熱演3年生を送る会で熱演(写真右端 中学2年)

小学5年頃に芽生えたガキ大将の才能は、中学ではすっかり板に付き?″田舎のガキ大将″。写真は3年生を送る送別会でのシーンで、先生の推薦を受けて演技力の必要ない 不良役を熱演??
こんな感じで、私と相性の悪い先生には、まるで私は悪魔のようで、随分手を焼かせたようだ。でも、かわいがってくれる先生もいて、兄弟のようにかばってくれた。現に二人の 時は兄貴と呼んでいた先生もあった(今でもそう呼んでいる)。

‥♪♪恋多き中学生♪♪‥

又あまりにも恋多き生徒で、覚えているだけでも5人はいて、一方的に熱烈な恋をして、その全 てが敗れると言う悲惨なものだった。
こんな事もあった、3年の時にバットを持った野球部の部員20人ほどに呼びだされ、リンチされそうになると言う事件 が勃発!。
これはまずいと思ったが、黙って袋だたきにされるものかと冷静に相手を分析すると、リーダー格3人の他は盛り上がっていないのが感じられた。喧嘩では私が 一枚上手なので、根性をいれて回避した。
もちろんあくる日3人を一人ずつ呼び出し、「一人で出来ないからと、仲間をたのみ、バットなどの得物を持っての喧 嘩はいけませんよ!」と諭し、悪い事をしましたと、謝るまでほんの少しお尻をペンペンしてやりましたがね。

‥本当はとても純粋で情熱的な若者(^_^;)‥

この写真を見れば分かってもらえると思 いますが、本当はとても純粋で情熱的な若者でした。勉強はしませんでしたが、他のことは何でも一生懸命で、みんなのいやがる、トイレの人糞を担いでいって学校農園に撒 く作業なんか、嬉々としてやったものです。

また工作部に入っていて、学校の椅子や机の修理はもちろん廊下の修理まで、毎日夕方遅くまでこつこつやったものです(よく校長が、もう帰りなさいと、パンを持って来てくれたことを覚えています)。

こんな事が評価され、こんな悪な のに卒業式のとき、一番成績の良かった生徒と私の二人が「校長賞」をもらってしまいました。周りもだろうが私が一番ビックリしたものです。

本当は真面目な中学生でしょう!
本当は真面目な中学生でしょう!
大工さん見習い(枚方の現場)15才
大工さん見習い(枚方の現場)(15才)

¢蜊H見習い

昭和37年3月 卒業式のあくる日には汽車(当時は蒸気機関車で新宮から天王寺までは10時間位かかったのではないかと思う)に乗り、バタバタと田舎を 後にしたのを思い出す。

他の同級生は皆4〜5日家でゆっくりして、それぞれの就職先に出発するそうだが、せっかちな私は「そんなに慌てて行かなくても」と 言う親や親戚の話を聞かずに、さっさと出発して、その次の日には分からないまま仕事の現場に行っていた。

今にして思うに仕事を始めるのも早かったが、リタイヤするのも早い!しかし、あわてんぼう人生で終わらせたくない、と今しみじみ思っている。

住み込んで仕事を教えて貰うわけだが、驚いたことに1ヶ月で1500円の小遣いを貰えるという。

今までお金を使った経験はなく、村祭りの時でも貰える小遣いは50円が最高で、100円札なんてのは「いのしし」と言って大人が持つ物だった。それが毎月1500円なんて言ったら私には天文学的な数字である。6ヶ月ほどは、そんなお金はいらないからと、貰わなかった。親方はそんなら預かっておくからと、笑っていたのを覚えている。

後に、仕事を少し覚えて、自分の道具がいるようになったとき、親方に一通りの道具を買ってもらったが、その時使った。今もその時の道具は大事に使っている。

少しづつお金も先輩の真似をして使うようになり、毎月、サンダルと歯ブラシを買うようになった。時々はアイスキャンデーやあんぱんを買って食べるのが最高の幸せだった。残りは貯めておき、大工道具を少しづつ買いそろえて行くという、真面目な青年だった。

大工の弟子入り写真 大工の弟子入り 現場で

もともと木工が大好きなので、プロの大工の仕事は面白かった。2年もすると小さな家は任されて出来るくらいになった。が良い事ばかりは続かない。
親方の家に 住み込みでお世話になっていたのだが、その親方は、身体は酒で出来ているような人で、朝から酒を飲んで元気に仕事ができるような人だった。
そんな訳で朝と 昼の弁当はご飯を食べられた(おかずはあまり入ってなかった記憶がある)が、夕食がつらい。毎日夕食の食卓には酒がどかんと置かれてあり、もちろん未成年の私も飲み放題!しかし、おかずはいつも漬け物のみ。
おかげでその頃の私は酒でお腹をいっぱいにする、と言う生活が続き、気がついたらゆっくりゆっくり栄養失調になっていたようで、爪が茶色くなり、しばらくそのままにしてると、爪がそのままの形でスポッと全然痛くないのに抜けていき全部、指の爪が抜けて無くなってしまった。
その頃 親父は大阪の小さな鉄工所の工場長をしていたが、私のその爪をみて心配し医者に見て貰ったら「栄養失調」とのことで、親父が「せっかく仕事も教えてもらい、これから親方にお返しをせないけないのだが、親の仕事の都合で息子を辞めさせてほしい」と親方に掛け合ってくれ、大工をやめることになった。

┘┘親父と働く┌┌

初めて着たスーツ(写真)初めて着たスーツ(17才)

そんなわけで、親父の元で働くことになった。
大阪の今にも崩れそうな民家で、単身赴任していた親父を大将に、5〜6人の若者が共同生活しており、私もその仲間になった。今度は木から鉄に変わりはしたが、細工に変わりなく、先生は親父だから、人が3年で覚えるところは1年で教えるからと、仕事を盗む職人と違い、まさに手にとって教えて貰った、土の中にまるで水がしみ込むように 技術を覚えた。しかし有頂天になり失敗も沢山して、親父にそ〜と直してもらうこともしばしばあった。
毎日親父の顔を見て暮らせるのが嬉しかった。年上の 人が多かったが、親父が居るためにか私は随分先輩に大事にされた。
親父は仕事は出来るが、うるさい事は言わないし、丁寧に教えてくれるので、みんなに好か れていたので、楽しい毎日だったと言う記憶しかない。
しいて言えば私が一番厳しく仕込まれたと思うが、大きな声を出して何か言うといった感じではな く、「やって見せて、やらせる、出来なければもう一度やってみせてくれる」と言った感じだ。ここでも親父にしかられることはなく、「失敗は仕方ない、次に成 功すれば失敗ではない」と教えられた。
親父はしかり上手だったと思う。私は後に子供をしかるのはどうやれば良いか?と聞いた時、「我慢しろ」まず我慢 して、あくる日やっぱり子供が悪かったと思った時にしかれ、と言われた。
なるほど子供は悪い事をしているのではなく、知らないために失敗しているだけなの が、良くわかった。だから私は長男を一度だけしかったことしか覚えていない。

あの頃は景気が右肩上がりの時で、効率とか材料費とかそんなことはあまり言わず仕事出 来た。あの松下電気でも、親父に頭を下げて、「経費はどうでも良いので是非明日までに仕上げて下さい」なんて仕事がよくあった。

経営者は仕事の解らない人 だったので、全てが親父の肩にかかっていたので、若者に確実な仕事を覚えてもらい高度な仕事をさせるために、人知れず苦労をしたのだと思う。でも私は仲 間を得て実に楽しく、仕事の腕も上がったのは確かだ。

ちょっと色気づき(17才)
ちょっと色気づき(17才)
六甲山にハイキング(17才)
六甲山にハイキング(17才)

‥(^^;)山歩きそして自転車旅行(^^;)‥

先輩に山歩きの好きな人がいて、休みにはよく六甲や近くの山や川に連れて行ってもらった。又違う人には歌声 喫茶やダンスなどにも連れて行ってもらった。

まさに青春そのものを存分に楽しんだが、ふとそんな時芽生えた「何かしたい」と言う思いはどんどんふくらみ、 その「何か」はやがて「自転車旅行に!」

思いついたらもう自分のコントロールが出来ないのが私の最大の欠点!よく言えば、即実行!すぐ近所の自転車屋に自転車を買いに行ったのだ。

私の我慢の無さに親父もビックリした、と言うのが本音だったようだが、言い出したら聞かないのは一緒に生活していて、分かっていたようで、自転車旅行用の自転車 を買うと言う私の主張を、旅行は反対ながら渋々賛してくれた。

早速近所の自転車屋に行き、バカみたいな計画を店の親父さんに話したところ、初めは話の大きさに笑っていたが、私の話が本気だと知り、心配だったのか、親父に「あんたの息子がどえらい計画を持って自転車を買いにきてるが、売ってもええんか?」と聞きに行ったくらい、当時としては無謀な計画だったようだ。

最新式ドロップハンドルの自転車
最新式ドロップハンドルの自転車

私は自転車と言えば、運搬車みたいにゴッツイ「丸石」しか頭に浮かばなかったが、計画を聞いた自転車屋さんは「京橋の問屋に一緒に行って見てみよう、見て納得のいく自転車を作ったほうが安心だ。」と私を連れて問屋さんまで行ってくれた。そこでシャーシと部品、付属品一式を選び、二人で持ち帰り、店で組み立ててもらったのが、全て外国の部品で作った最新式の高価な自転車だった。

当時は舗装道路と言えば1号線のみで、後は町なかが舗装されてたら良い方で、地方は、全くと言っていいくらい何処も砂利道だったので、太い目のタイヤに頑丈なシャーシと、全体にごつい感じの自転車が出来上がった。

全財産を払って受け取った自転車を乗って帰る時、生まれて初めて乗る″ドロップハンドルの自転車″はまっすぐ走ってくれず、自転車屋の親父さんの「大丈夫か?」と言う声が何度も後ろから聞こえた。何とも乗りにくい自転車に、内心焦ったがフラフラしながらもどうにか家にたどり着いた時は、早くも尻が痛かったのを覚えている。

それからは自転車になれるため、仕事を終わった後、京都までよく走りに行ったし、土曜日は琵琶湖まで走り砂浜で一晩寝て帰ったことも何度かあった。

競輪選手が練習のためグループで走っている後ろも走らせてもらい、だんだん自信が付き、田舎にも2泊で行った。さすが帰りは汽車に乗せて帰ったが、足は十分やる気になっていた。


国道7号線 こんな道ばかりです(写真)>国道7号線 当時はこんな道ばかりです。(17才)

詳しい計画表を親父に渡したが、危ないから反対でどうしても行かせてくれず、とうとう家出みたいな格好で出発してしまった。
田舎には、母親と高校に通う妹がいたので、先ず田舎を目指して走った。
田舎に着いたとき親父から電報がきて(勿論電話は無い)、1日待てと言ってきた。すると親父が2万円(当時 親父にとっても大金だったと思う)送ってくれた。無銭旅行だからお金はいらないと思って出てきたが、食べ物は買うしかないし、ありがたく貰っておく。これで心強い。
でもその後一週間もすると、反省と後悔の連続だった。
しかし今は、私の人間としての形が、あのとき 作られたと思っています。強烈な想い出と友情、何十年たってもアセることなく私の精神に自信を与えてくれています。甲子園球児が生涯甲子園を忘れないのと同 じ幸せな出来事です。

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