楽しく生きる、振り返ると道が  21才〜24才


‥‥よく働き!よく遊び!よく喧嘩??(^^;)‥‥

その頃は妹も大阪で働き、両親は大阪の東淀川のアパートで二人仲良く暮らしていて、夢多き、きかん坊の私との三人暮らしが始まった。

今度は親父と違う鉄工所で働く事になった、食費も入れずに同居となったが、夜遅くまで帰らない私を母親は、夜なべで裁縫しながらいつも起きて待っていたのを、今でもはっきり覚えている。

その頃は五人ほどの仕事仲間といつも一緒で、リーダー(菊さん)は仕事も口も達者で、景気も良かったので、いつも五人まとまって会社を渡り歩き、支度金(当時は人手がほしいのでそんなお金を会社が出していた)を貰っては全員転職し、お金が入ったらそのお金が無くなるまで毎晩飲みに行くと言う、若い私には何とも楽しい楽しい毎日だった。

その分母親は心配だったろうが、小言は私が受け付けないので、随分我慢したのだろうと思う。(今、母親は、こんな幸せが来るとは思いもしなかった)と言ってるから本当にバカ息子だったようだ。

でも夜遊び、地回りのチンピラとの喧嘩や転職ばかりで、落ち着かない最悪の生活みたいだが、ヨット作りを諦めた訳ではなかった。仲間との仕事や夜遊びと、ヨット作りの夢を平行してやり抜く元気があった。

お金が貯まったら、そのお金を持って和歌山の宇久井港の造船所(と言っても私のヨットを作っているだけ)に行き、その分の材料を買ってもらい、そのたびにヨットの形が少しづつ出来ていった。

仕事仲間と言っても私が1番若く、リーダーは40才前で気は短いが根性の座った男で、上は65才位で最年少の私は20才そこそこ、地獄まで一緒に行くのではないかと思える程、中身の濃い男の付き合いであった。

ある時など一週間ほで会社の機械の前にゴザをしいて、ほとんど寝ないで、働き続けた事があったが、その時もだれ一人抜けなかったし、地回りの連中と大喧嘩になり、相手の一人が背中の入れ墨を見せた時も、誰も逃げなかった。

さすが明くる日は身体中腫れ上がったが、喧嘩には勝ったので、満足して又祝杯をあげる!そんな日々は新鮮で楽しかった。

そのヤクザとの喧嘩の後、菊さんのところに、喧嘩したヤクザの親分が「地元で余り大きな声を出さないように、じゃないと組として黙っているわけには行かない」と菓子折りを持って何とも、ドスの利いた挨拶を受けた事もあったし、一度などは仕事仲間では無いが、菊さんに惹かれて時々一緒に遊んでいた男を交え、十三のスナックで一緒に飲んでた時、その男が店の女性の事で、やはり地回り達と揉め事になり、その時も 入り乱れての喧嘩になった。

その時はその男が、刃物で斬られ、耳がぶら下がり、40何針ほど縫う大怪我をした事があったが、その時も菊さんがヤクザの事務所に行き話しをするほどの、世話やきだった。

♪♪‥ヨット完成!!(^o^)‥♪♪

昭和45年(1970)8月 ヨット進水式をする。(ヨットのページへ)大阪で働き、夏場は一ヶ月二ヶ月と仕事をせず、ヨットに寝泊まりしての貧乏貴族の生活が始まった。

箱根小涌園ホテル箱根小涌園ホテルにて

46年(1971)菊さんには「箱根ー鬼怒川」へ家族旅行に行くとき、お金を出してもらって一緒に連れて行って貰うほどかわいがってもらった。

そんな人は初めてだった、まさに男に惚れた、そんな素晴らしい経験を菊さんにはさせてもらった。

菊さんが家庭を捨てて、目の見えない女性と駆け落ちするまで、二年近くそんな生活が続いた。

鬼怒川の帰り、東京で菊さん家族と別れ、私はその足で北海道の雪祭りと、新潟に続いて自転車旅行の時お世話になった人達を訪ねる旅に出かけた。

上野から、普通列車で一昼夜位かかったと思うが、札幌に着いて、駅を一歩踏み出した途端、スッテーン!見事に転んでしまった。

近くにいた女性に手を持ってもらい、おそるおそる立ち上がったのを、今もはっきり覚えている。

どうも外に一歩踏み出す瞬間が難しい、みんなスイスイ歩いて行くのに、私一人がへっぴり腰でやたら足に力が入り、ここには住めないなと思った。

特に交差点などで、車のワダチのでこぼこになった所を渡るのは、忍者みたいに右足が地面に着かない内に左足を上げるみたいな、おかしな歩き方だった。

札幌雪祭り札幌雪祭り

先ずは宿を探したが雪祭の為に中々見つからなかったが、何とか汚くて安いピッタリの宿を確保。
早速二カ所の雪祭会場をバスで回ったが、その大きさと、細かい作りにはびっくりした。

今でも「ミツバチハツチ」の歌が聞こえるとあの光景が浮かぶから、余程の素晴らしさだったのだと思う(ミツバチはっちのでっかい像があり音楽がかかっていた)

一人で回るには淋しいし寒すぎたが、感動物であった。

小島宅での雪下ろし小島宅での雪下ろし

次の日、自転車旅行の時知り合った先生に岩見沢の駅まで迎えに来てもらい、先生の家に泊めてもらうことになった。あの時の住所は確か雨竜群だったと思うが、雪の上をえらいスピードで走るのにはびっくり。

スリップして横になって止まった事もあったが、慣れたもんで回りの人がすぐ集まり「よいしょ」と押せば簡単にまっすぐなり、何もなかったように走りだすから、雪国の人の助け合いの精神には内地人の私はある意味びっくりした。

先生の家で「危ないから」と言うのを無理に屋根の雪下ろしをやらせて貰ったが、軽いはずの雪なのにすぐ汗だくになってしまった。こんな事をひと冬に何度もやるらしいから、やはり雪国は大変だ。

岩見沢スキー場岩見沢スキー場

あくる日は後にも先にも一回きりのスキーに連れて行ってもらう。

先生の1番下のかわいい女の子と一緒に行ったのだが、最初は教えてくれていたのに、しばらくすると二人共上の方に行ってしまい、格好良く滑って来てザッと止まりニィ!と笑う。

特にちびの女の子ははるかに年上の私をさもバカにしたようにすぐ横で止まって、かわいい顔で笑いやがる(その子は今や大事な妹みたいな存在)。私は一人チョロチョロっと滑っては転び、滑っては転びで情けないスキーを楽しんだ?

次の日はもちろん筋肉痛!もうスキーはこりごり、だからスキーでなく、湖にワカサギ釣りに連れて行ってもらう。釣果は忘れたが多分おかずは釣れたと思う。

研究熱心で物知りで、実行力があり(子供達は大変だった)らしいが、私にとっては最高の友(随分年上なので失礼ですが)です。

後には我々の結婚式の見届け人になってもらう事になった。南国育ちの私には珍しい遊びをいっぱい教えてくれた先生なのだ。

帯広駅帯広駅

つぎは帯広のやはり自転車旅行の時お世話になった家を訪ねる。その家は農家で、屋根の雪をそのまま積み上げ、子供達が屋根の上からスキーが出来るようにしてあり、さすが北海道!そんな家だった。

泊めてもらう事になったが、大阪から珍しい人か来たからと、声をかけたのは、私は全然知らない広尾で漁師をしてる人だった。

その漁師さんのお土産はおどろいた事に、毛ガニがカマスにギッシリ!漁師さん達でも食べれない毛ガニだそうです。

それを何万円分も持って来てくれる人間の大きさ、「なんも、ええんだ」と土産の自慢などコレッポッチもしない、内地では絶対考えられない、付き合い方に、二日間にわたって毛ガニに食らいつきながら、驚いたものです。

あれ以来日本一うまい蟹は毛ガニだと固く信じて疑わない私ですが、その後二度その友達の所にお邪魔しましたが、あんな幸運に巡り会いません?(催促してどうする)

黄金道路黄金道路

蟹だけで満腹になる幸運の次は、腹ごなしにと車で「勝狩峠に連れて行かれマイナス25度を経験させられる。

公衆トイレのオシッコがほんとに凍っていたから驚きだ(と言ってもハンマーを持ってするほどではありませんからご安心を)ちょうど鍾乳洞みたいに、みんなのオシッコが積み上がって、その模様が美しい感じ、ただ黄色っぽいけどね。

その後更別の「かねばあちゃん」を尋ね、懐かしい話しをいっぱいして、帰る訳だが、なぜか弘前で急に途中下車して、旅館に二泊した。

昼間はぼーっとして過ごし、何となく入った一杯飲み屋に二夜通ったら、変なよそ者にママさんは「あなたは小説家でしょう」と秋田弁でいった、その響きが心地良かったので、二日間の小説家に酔いしれ、そのままの気分で大阪に帰ったが、なんと!大阪駅で家までのバス代が無いことに気付く!

駅の近くの質屋に行き時計を出して「バス代の50円ほど貸してほしい」と頼むと「うちは商売やから、そんな安いお金は貸せん」と言い、無理矢理二千円だったか借りらされ、無事北海道旅行は終わりました。(時計はすぐ請け出しに行きましたからご安心を)

北海道から帰ってしばらくして菊さんが居なくなり、グループは腑抜けになってしまい自然消滅、ヨット遊びに本格的に突入!

台風の度にヨットを安全な港に回送したり、もやい直したりするのが面倒になり、田舎で暮らすことにして、又引っ越し、今度の住所は海の上だ。

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