楽しく生きる、振り返ると道 が  31才〜


(^_-)″。。〜〜新婚生活〜〜。。(^_-)″

結婚するのがこんなに楽しいとは!!毎日仕事が終われば、酒を飲まない私はまさに伝書ハトのように家に飛んで帰ったものです。

当時は共稼ぎで、私は相変わらずの4トントラックの運転手で、北は東京から九州佐賀までほぼ全県を走り回っていた。

嫁さんは保母(当時はそう呼んでいた)をしていて、私より収入が良かったかも知れない?

でも私は嫁さんに向って「お金は残さず全部使ってしまえ」といつも言っていたので、素直な嫁さんはその言いつけを実にまじめに実行し、実に優雅な生活だった。しかし、後にも先にもあんな優雅な生活を送る事が出来たのは、あの時一度きりだ。

結婚してからも転職を繰り返し、8回も会社を変えた。それが出来たのも、やはり嫁さんの収入があったからであるが、一応転職の都度待遇の良い会社に入ることが出来、「私の人徳?」と思えるほど、自由でわがままな新婚生活でした(それは今も変わっていない)。

私の友達、家族はみんな「私の人徳ではなく、もったいない程良い嫁さんをもらったからだ」と口を揃えていいますが、、、、、。

(^_^)v☆★☆★ 長女誕生 ★☆★☆(^_^)v

1978年5月(昭和53年)長女誕生、私も人並みに親となった。

子どもがこんなに可愛いとは、その可愛さは想像以上で、その時の嬉しさを書いた手紙を友達に送ったが、その友達が最近「あまりに良い手紙だったから」とコピーを送ってくれたのが手元にあるが「可愛すぎて子どものウンコでも食べれそうだ」と書いてあった。

あらためて写真を見てみると、ほんまに可愛い! 我々夫婦も若くて、ついこの前のような気がするが写真は正直に時代を映し、振り返る事のあまりしない私だが、髪がふさふさの私の写真に向って「たった30年でこうなるか?」と一人つっこんでいる。

BBB インドへの旅 BBB

← 写真は ニューデリーのガンジー火葬場

1980年(昭和55年)私の初めての海外旅行先が何と「インド」。13名程のツアーであったが、ほとんどの人があちこちの国を歩いて、最後にインド!と言う感じだったのに、初めての海外旅行がインドと言う、私の旅のやりかたにビックリしているツアーの人達がいた。

その時伊丹の空港での私の自己紹介で「男前のうしろです!」と、今より少し髪の毛が多いだけの私が言ったもんで、ドッとうけた事を覚えている。

当時インドはまだ今のアフリカほどの認識しかなく、ビートルズや他の変わり者が、精神を鍛える目的でインド詣でをすると言った感じだった。(ネパールには日本人のヒッピーはいた)案の定私の旅はそのど真ん中で、カルチャーショックを受けたのは当然ですが、インドを旅する人たちはやはり皆さん面白く、30年近くたった今でも何人ものメンバーと友達関係が続いているのを考えても、その意義があったと思っています。


インド人は皆哲学者に見える


笛の音に踊るコブラ


道路には車と牛と自転車が


草を運ぶ女性


定員オーバーのリキシャ?


野菜を売る屋台


馬車も立派な乗り物


お金のある人はリキシャで


ラクダに乗る


ぞうに乗る


映画大国インドの映画のポスター


ベナレスの有名な久美子の家


ガンジス 沐浴場


前回知り合ったアニタ夫婦とホテルで再会


紛争地帯の避暑地ダル湖


ダル湖の端正な顔立ちの住民


ダル湖の水上売店


ダル湖の水上ホテルオーナー


カトマンズ空港 滑走路を歩くのが珍しい


ネパール 水場 屋根の赤はとうがらし 


町を歩くネパール人


ネパール 土産物製造工場


ネパール 目玉寺


エベレストが一瞬姿を見せる

食べ物に敏感な私は高級ホテルの食事さえ、時には受けつけない始末で、いつもほとんど下痢に悩まされ、帰国のときも空港の検疫で引っかかるのを恐れ、「どこも悪くないよ!」とばかりに笑顔をつくるのに苦労した。

そして一回目の帰国後、自宅のトイレでとうとう「大量のアゲ下し」私はあろう事か汚物の海となったトイレの中で気絶してしまった。

救急車で病院へ、「インド帰り」と言う事を言った途端、看護婦さんは廊下の突き当たりに私を隔離、部屋には入れてくれず顔を背けながらも私に付きっきりで世話をしてくれた(当時コレラが東南アジアで流行の兆しがあった)。

トイレに行くにもついて来て、私の触った所を消毒液で拭いて回ると言うVIPなみの待遇で?ことの重大さにビックリした。

検便の結果、もし「コレラ菌」が検出されたら、私のせいで旅で一緒だった人を含め、飛行機で一緒になった人たちも皆「コレラ検査」を受ける羽目になる!(もちろん嫁はすぐに検便を受けさせられた)

しかし運良く単なる「食あたり」で無事放免されたが、普通こんなことがあったら「インドはもういやだ」と言うことになる筈だが、私の場合はそうならず、それから3回もインドに通うことになる(最後の インド旅行は初めての家族インド旅行となった)

(^_^)v」氣」氈@長男誕生 氣」氣」(^_^)v

←1982年10月(昭和57年)長男誕生!

この頃、大きな借金を抱え込むという、ハプニングに見舞われ、ピンチの時期であったとでも言おうか(しかし、このことが前を向いて歩くと道が開ける、と言う発見につながり、今の気楽で楽しい人生を送る基になったのかも?)。

依然共稼ぎが続いていて、私は車にかえて、ちょっと自信のある自転車で往復50キロの道を通勤することに決め、いわゆる″頑張った″。ばあちゃんに子ども達の面倒をみてもらっていたので、ばあちゃんと同居したのもこの頃である。毎日夢中だったが、友達と子ども達、そして同居のおばあちゃんや田舎の両親のおかげで、質素ながらも張りのある素晴らしい人生の1時期が送れたと感謝している。


長男の宮参り


始めてひげを剃ったとき、子供は大泣きした

(^o^) 子供と遊ぶ!と言うより 子供より遊ぶ! (^o^)


田舎にてチャンバラごっこ


クリスマスの日 
家の中でテントを張って一夜を明かす

長女が小学生の頃、子どもの仲良しを招いて家で誕生会をするのがはやっていて、我が家はクラスメイトの子ども達全員を近くの大和川に連れて行き、河原でバーベキューしたのが好評で、父親の点数を大いにあげる出来事があった。

大体がこう言う事は母親の出番であったが、我が家では父親も子どもと同じレベルの遊びを好んでした。

←写真は 大和川でのバーベキュー誕生会


吉野で飯ごう炊さん


雪の金剛山


秋の金剛山


伊賀上野で川遊び


1985年 阪神優勝


長野県駒ヶ根でキャンプ

うまく表現出来ないが、私は、子どもの人格を子ども達が小さい頃から尊敬し、今もそうだが自分よりずっと才能がありスゴいと感じている。

そんな土壌があり、我が家では子どもに命令とかは、あまりしない方だったと思っている。

←写真は 熊野古道 那智の大門坂にて

◆◆◆ 3度目のインド旅行 ◆◆◆


二人とも英語が出来ずホテルでも手ぶりで


 
バス停でバスを待つ貧乏旅仲間


久しぶりに行くとバスも二階建てに?


 
人力車も登場!

何時も遊びは一緒の友達と二人でインドに行くことになり、格安チケットを買い、ドキドキしながら空の人に、途中香港あたりで台風に遭いコップの飲み物が浮き上がるほど飛行機が落下(700メートルほどらしい)した! 

機内は悲鳴があがり、乗務員の顔も笑顔が引きつっていたほどだ。恐がりの私も悲鳴こそ上げなかったが、心の中では悲鳴がこだまして、しばらく鳴りやまなかった。安いチケットなので仕方ないか?なんて言ってもいられない恐怖のフライトとなったが、案外安全でよく有ることらしい?

カルカッタ(当時はそう言っていた)の空港に着いたのはまだ明るかったが、誰も迎えなど有るはずもなく、でも何となくリムジンバスに乗ることができた。

「街に近い所で降りたい」と例の流れるようなゼスチャーで隣の人に聞くと、「ここだ!」と宇宙語で教えられたのが上のバス停で、何人かの待っている人の中に日本人の若者(ヒッピー)がいた、やはりここで正解らしく、下車を教えてくれた人に感謝!

その若者にとりあえず付いていき、バスの乗り方やマナーのようなもを教えて貰う。びっくりしたのは女性が乗ってきたら男は必ず席を譲らなければならないらしい?泊まる所を探すのがおっくうなので、その若者が泊まってる下町の宿に泊まることになった。

4人部屋だったと思うが部屋にカーテンがしてあり、その中でシャワーをする と言う初めてのドミトリー体験をした。エアコン、トイレはなく、ドアには鍵もなかった。言葉の通じない4人、2組の奇妙な男達の一夜は虫と暑さに眠れないまま明け、フラフラになってしまった。

今回は列車の旅をしようと、駅に行き列に並んで切符を買おうと何度もチャレンジしたが、その度に旅行者はあっちの窓口だ!こっちだ!と振り回された挙げ句、違う建て物だと言う有様で一日が過ぎ去った。

明くる日、言われた建物に行ってみたが、昨日と同じ作業の繰り返しでらちがあかない(何しろ俺たち2人とも日本語しか話せない)。諦めて街をぶらついていると「エアーインデア」のオフイスを見つけ、入って、なまった日本語で「ニューデリー!」と言うと、何といとも簡単に地名が通じ5分で切符が手に入った。

ニューデリーのコンノート広場の近くで少しましな部屋を見つけ、カルカッタの10ルピーから100ルピーほどの高級な?ホテルに泊まることにする。

部屋にはトイレも湯の出るシャワーもエアコンまでちゃんとある(なければ生きて行けない暑さだ)快適な部屋になったが、酷い下痢に悩まされ、何も食べれず唯一オレンジで何日か生き延びた。

体力の戻った時、以前にも会ったアニタの家をリキシャに乗って一人で訪ねるが、旦那さんしかいなくて「明日ホテルに向かえに行くから」と言うゼスチャーで別れたが、どうやらお互いのゼスチャーが通じなかったようで会えず終いになった。(その後も家族で行った時寄ってみたが、引っ越してしまっていて、それっきり会えなくなってしまった)こんなことで友達を失ったのは今も悔やんでならない。

しかしツアーでは味わえない本物のインドを見た、そんな旅でもあった。

帰りの飛行機もエンジンの故障で何時間も待たされ、土砂降りの雨の中やっと飛んだがエンジンの回転が途中で落ちてしまい、飛行機が何時までも上に上がらず何度も機首をあげては水平飛行を繰り返し、やっとタイに着いてそこで飛ぶのを諦めたらしく、航空会社のおごりでタイのホテルで余分の一泊をしてやっと日本に無事帰り着いた。そんな友達との弥次喜多道中であった。

∇∇∇ 始めての家族旅行(インド) ∇∇∇

←タージマハールの門にて

一度は家族で旅をしておきたい、そんな思いで私の大好きなインドに行くことになった。

前回のような貧乏旅は子供たちにさせたくないので、豪華なパック旅行にしたが、我が家の4人におとなしい女性2人の6人のツアーだったので、食あたりで危ないシーンも有ったが、まるで遠慮のない良い旅になった。


カジュラホの愉快な仲間達


インド門にて


ジャイプール ランバーグ パレス ホテルにて


ランバーグ パレス ホテルの中庭で
 バクテンするサン


象に乗ってアンベール城へ


アンベール城の屋根は黄金で葺いてあった


アンベール城 大理石のみごとな透かし彫りの窓


ベナレスの日の出


アグラ城 ガイド氏と


ファンテプーリシクリの遺跡


風の宮殿


カジュラホでリキシャに乗る息子


タージマハール 6人のツアー客全員集合


タージマハール 遠望

★★★ 2度目の家族旅行(タイ)★★★

家族旅行はインドで終わりか?と思っていたが、弟のような付き合いをしている男の嫁がタイ人で、里帰りすると言うので、昨年に続き海外旅行ができた。

地方に行かなかったのでタイはまるで大阪みたいで、毎日デパート巡りをしていた。

驚いたのはバスで同じコースを急行やら各駅停車やら、エアコン車やらドンドン走っていて、どれに乗るのかバス代も違うし、友達の嫁が居なかったら訳が分からない。バス停などでも止まってくれず、見計らって飛び乗ると言う芸当をしなければならず、我々だけの時は乗れなかった。

青いマンゴ-に砂糖をまぶして食べるのを知ったタイ、私がパチンコで儲けた8万円のへそくりを長男の目の前でまんまと盗られた(手品ー今はハンドパワーと言うのか?)のも今は懐かしいタイ。





・・・<(_ _)> おわりに (^_^)/・・・

タイに家族で旅行したのを最後に海外旅行は卒業!

この他に家族での大きな出来事といえば、長男が7歳の頃、田舎に自分たちで丸太小屋を建てはじめたことです。

毎週毎週、車に酔う子ども達を乗せて、吉野から大台を越え(当時は車がすれ違うのも広い所で待つほど狭かった)熊野に出る189号線を田舎に向かった。この道を何度走ったことか?

正月と5月の連休、夏休みの10日ほど、そしてほとんどの土日を、自分たちで家を建てると言う楽しみで、10年以上の月日を子ども達と過ごせたのは、私の人生で、子育てに次ぐ大事業だったと自負してるし、この「丸太小屋を建てよう」という思いつきに感謝している。ログハウスのページはこちらです

こんな自由な人生を送れているのは両親の育て方もあるだあろうが、良い嫁と出会ったことが第一の勝利であろう!

そして最後に20年間勤めた会社の給料が良かったこと、有給休暇が100パーセント取れた事が、丸太小屋を建てる夢の実現に繋がったと思う。

←海上コンテナを運ぶトレーラー 右端が私

若い頃(30才台)は自転車で往復50キロの道を通勤するほど体力に自信もあり、言い出したら即実行と言う性格の単純さも、好きな事をやり通すことが出来た要素だったと思う。

私の人生を振り返るとしたら、満足のできる良い人生だったと言えます。

でももう少し寿命があるようなので、これからも年金生活を楽しみ、ブログで私の日常を書き続けていきたいと思ってますので、20世紀の終わりから21世紀の初めに生きている、ありふれた男との付き合いをもう少しよろしくお願いして、この章はしめさせて頂きます。

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