2003年2月26日
心臓が止まりそうになった話!(心筋梗塞で緊急入院)

私、心筋梗塞で入院しています。

ありがたいことには、私には、いい家族とたくさんの友達がいます。 今このサイトをごらんのあなたもその内の一人の可能性が大きいですね。

そうであれば、プンプン怒っていると思います。「ちょっと教えてくれてもええやんか。友達がいのない!水くさい奴やな!」なんて。生きているから、こうして私のわがままな、笑えないシャレが言えるのです。

入院は1ケ月ほどになると思います。その間に、ゆっくりと生と死について私なりに考えてみたいと思います。いつもとは感じが違うと思いますが、縁あって知り合ったよしみで、今回はあなたも、私の生と死の体験を真面目に自分のものとして考えてみませんか。

私には、三重県の田舎に両親が暮らしています。父は80歳をいくつも過ぎ、立つのもつらい生活をしています。いくつになっても、子供を楽しみに生活しているのが、この頃になってやっとわかってきました。その子供が、こんなことになったのを知ったなら、いったいどうなるやら。

私なりの親孝行と考えて、両親には知られないようにしようと考えた。それにはまず、私の妹に黙ってなくてはならない。田舎の親しい友達、あの人、この人、と考えていくと、すべての人に黙っていた方が一番良い!と、私の明晰?なコンピューターが、一瞬で決めました。

実行してみると、今度はそれを話すときの楽しみが出来て、その日、その時が早く来ないかと楽しくなってます。

悠々楽々、思いようで1ケ月も仕事もせず、ノンビリ毎日寝て過ごせて、誰にも文句を言われない生活が出来るのです。そう思うと最高のゼイタクなのかも知れない!


こうして私の道が狂ってしまった。

2月26日(水)有給休暇あけで、めずらしく定時で出社、貰った仕事は、時間もゆっくりしたものだった。10分前、ベストタイムで荷物を積む会社に着き、予定時間ちょうどから積み込み作業が始まり、私はノンビリ缶コーヒーを買って車内で飲もうとしたら、急にムカムカしてコーヒーを飲むことが出来ず、車内で戻してしまった。戻したら気分の悪いのが少し収まったので、口をすすごうと下車、5メートルほど歩いたところで、周りが見えなくなってしまった。

気がつけば、手はついたものの、顔面から倒れてしまって前歯が折れたようだ。意識はあったが動く事は出来ず、やけにコンクリートが冷たく気持ちよかった。「格好悪いな」というのが、その時の正直な気持ちだったが、どうしても自分で立つことが出来なかった。すぐにそこの会社の人が来てくれて、「救急車を呼びますか」と聞いてくれたとき、そうか、以前より「気をつけないといつかは成人病になりますよ」と言われていたが、ついにその時が来たのかと、案外冷静に感じて受け入れている自分がありました。すぐに「お願いします」とその若者に言ったのが良かったと思います。

私にまだ生きるチャンスを貰ったとしたら、まず車内でなく、人目のある車外で倒れたこと(早く気がついてもらえた)。第2に搬送された病院に、専門医がスタンバイしていてくれ、すぐ処置が出来たこと。(後で聞いた話によると、大阪でも循環器では評判のいい病院だった)

病院には11時頃に着いたのではないかと思う。冷や汗がいっぱい出て作業着の上着までベチャベチャに濡れていたのを覚えている。まず名前や家の電話番号などを聞かれ、書類3枚にサインをさせられる。「アアー テレビなんかでよく見るな」なんてボヤーと考えながら、日本語とは思えないような字で自分の名前をひらがなで書いた。(家族と連絡が取れないので、手術の承諾書のサインを自分でしたが、ドクターは「字が書けなかったら○でも×でもかまいませんから」と言ったが、真面目な私はひらがなで書いたが何となく読めるかな?と言う字だった)「上着はハサミで切りますよ」と言うので、これもドラマみたいだななんて思いながら、心臓が痛いばかりで手も足も自分の思うようには動かせなかった。下半身の毛をそられながら、「ひょっとしたら、もう子供達には会えないのかもしれない」と、さっきしたサインと結びつけて弱気なことばかり考えていた。

「カテーテル治療が現在では一番有効で、負担のない治療で、数時間かかります。私たちも頑張りますのであなたも頑張ってください」、と言うようなことを言われたと思う。あの先生の言葉は、随分心強い言葉だった。こうして局部麻酔をして、私の運命の治療が始まった。

動くことが出来なく痛いのは、自分のためだから頑張ることは出来るが、耳が敏感に周りの、それも自分にとって都合の悪い言葉ばかり探してしまうのには一番困った。「大きな固まりやな!」とか「これは重症やな」「うまくいかんな」とか「少しぐらい残っても仕方ないかな」なんて、先生方の専門用語に混じって、私にもわかるこれはダメかと言わんばかりの言葉が私をまるで地獄に突き落とす。

根性で決まると自分に言い聞かせ、わりかし冷静に自分に対して「死ぬもんか負けるなよ!」と言っている自分を間近に見ることが出来た。こんな風に書けばクールに聞こえるが、そのほとんどの時間は、ただ目をつむり、「俺は死なない、死ねない、先生失敗しないで!」と念じていたのが本当のところだ。

はっきりした時間はわかりませんが、治療は4時間以上かかったはずです。その間に、「家族との連絡はまだ取れないのか」という言葉を何度か聞いた。妻はこんな事になっているとは夢にも思わず、長男におかずを届けに神戸に行っているはずだし、長女は徹夜で仕事をしているはずだから、今頃は寝ているはずである。この事をこの場の人たちに私は頭ではわかっていても、声がでず伝えることがどうしても出来ませんでした。


「ああ〜あ 終わった!」

手術室のドアを出る時の気持ちは、「ああ〜あ 終わった!生きていた」という喜びでいっぱいだった。

ドアーを出た所で、思いがけず会社の上司と妻の顔が、見えたときは、ほんまにほんまに嬉しかった。話などする時間もなくさあっと通り過ぎてしまったが、上司の「ガンバレヨ」と言う言葉が、弱ったからだと心に120%しみ込んでいくのがわかった。実に的を得た励ましの言葉だと感心する。

ICU(集中治療室)は、ただ生きているだけの患者にとって、とても広く、安心感のある部屋であり、若いたくさんの看護士の人たちは親切で、テキパキしていて、安心感のある部屋です。

しかし、運ばれてから、ずうーと上を向いたまま、足も曲げることも出来ず、お尻をずらすことも出来ない時間が、何時間過ぎたことか。腰がいたいを通り越して、しびれてしまっている。「痛み止めを出しますから、いくら痛くても絶対動かさないように」と言うことなので、まことにつらい。しかし、痛いより生きたい。それに親身になって世話してくれる若い看護士さん達に励まされて、時間は少しづつ、快方に向かって進んでくれるだろう。

岩田Drから、「そうとう危ない状態で運び込まれたこと、今の心臓の状態は「柔らかい豆腐」のようなもので、とにかく安静にするように、咳をしても心臓に穴があいてしまうこともあるので、手を動かす時も、力を入れて急に動かしたりしないように、と注意があり、今までに自分の手にこんなに気を遣った事はなかった。

上を向いたままの私の耳には、「アスカさーん}なんて、子供と同じ名前の看護士さんや、沖縄から来た男の看護士、私の痛さをいつも気遣ってくれた宮本さん、他の人達も、天井しか見えない寂しい私にとって、実に心のこもった看護をして貰いました。

1日の時間の長いこと、昼も夜もわからず、うとうととして、「いたい!いたい!」と言うことと「若者はいいな!」と言うことが、この時の私の感じていたことです。

ICUの面会時間は、2時から3時までの間の15分だけ、それも家族だけだそうです。エプロン、マスク着用。


2月27日(木)右足カテーテル抜ける

今日も同じ状態、指には、血液中の水分量を計るらしいセンサーを常に差し込まれていて、左腕は、血圧計のベルトが巻きっぱなしで、常にテレビの画面に、いくつもの線と数字が忙しく私が生きている証を写しだしている。

「今日の午後、左足のカテーテルを抜きます。」という嬉しい情報に、内心思ったより良くなっているんだと実感する。「これを抜けば、少しは腰を動かすことが出来ます。と言われたが、手でするジェスチャーでは、どうも2〜3Cm位しか動かせないみたいだ。でも、朗報である。

1時半、いよいよ少し楽になる時が来た。「少し痛いですよ」と言う言葉で始まったが、それは尿管結石の痛さを何度も経験したものにとっても、痛さの質が違っていたが、文字にするなら「重い痛さ」であった。まさに、太い動脈に入ってパイプを抜いて止血するのだから大変だ。自分の目で見ることは出来ないが、思わず、2度堅いベッドに腰を引いてしまった。その後、止血のためにテニスボールを半分に切ったような鉄の玉を、それこそ先生が渾身の力を込めてギューと押さえつけ、きついきついベルトのような物で止めて終わった。このまま、絶対安静で2時間、そうすれば、一応止血は終わりだそうです。しかしその時がきて、先生は、「急患の為にこのままにしておいて下さい。」と看護士さんに言って出ていった。

結局4時間程止血することになる。しかしこれは、結果的に完全であり良かったと思う。看護士さんに助けられ、少し体を斜めにして貰う。久しぶりの体の変形に全身で嬉しかった。今日から食事が出たが、少しだけ食べさせて貰う。自分とは思われない小食に「うそやろ」と自分につっこむ。結局、3食とも少し食べただけだった。朝方どうしても我慢が出来ずに大便をさせて貰う。(若い看護士さんは「どうしてもガマンできませんか?」と言ったがもうすぐソコまできているのでガマンができなかった)尻を少し上げてもらい少しづつ便器を尻の下に差し入れて貰い、「力を入れないで」と言われたが、下痢気味の便が力を入れなくても勝手にいっぱい出た。ここでも看護士さんに口には言えない感謝をする。(ものすごく恥ずかしかった)


2月28日(金)心臓に穴??

力を入れたら悪いからズーと我慢していた鼻が、息もしにくいくらい気持ち悪くなったので、 看護士さんに聞いたら、ゆっくり力を入れずに出してみて下さいと言うので、お上品に少しずつ鼻をかむ。何度もやったのでほとんど出てくれたので、気分が随分良くなった。

朝食を少し食べさせて貰う。ここは、朝食8時、昼食が12時、すぐ昼食になるので、昼は食べられなかった。少し動けるように(と言っても、体はまっすぐのまま、腰に枕を当ててほんの少し体を横にむけてもらう。)なったので、安心感と昼を抜いたせいで、夕食(6時過ぎ)は、ほぼ完食。やった!と思ったのもつかの間、その後が悲惨であった。

気分が悪くなり、せっかく食べたものを、すべて戻してしまった。私的には、「戻してしまった」という程度の感覚だったのですが、医学的に大変なことらしく、すぐ岩田Drがとんできて、さかんに「カテーテルをはずすのが早かったかなあ」と自問している。すぐ先輩の先生に電話できて貰い、今の状態は大丈夫か、すぐベッド横にエコーの機械を持ち込んで、エコーを見ながら先輩の先生に意見を聞いている。難しい専門用語で言っているのでわからないが、地獄の底にたたき落とされそうだった。

しかし、心臓に穴はあいてなく、薬で経過を見ると言うことで治療の方針が決まった。先生の顔が私と同じくらい安心したのがわかった。経験のある先輩の先生がいてくれたので、ここでも私は命拾いをしたようだ。血圧が、40〜20といつまでも上がらず、その夜は絶対安静がつづく。生と死を分ける夜になりそうな予感!


3月1日(土)一般病棟に移る

生きていた。良かった。夕べの先輩の先生(副院長)が朝見に来てくれて、手を握りながら、「命拾いをしましたね。本当に良かった。」と言われたときは、「命拾い」という言葉が、心にしみました。「本当に危なかったんですよ」とも言われ、「大事にしてください」と言われたときは、手のぬくもりとともに、医学と人情のありがたさを感じずにはおれませんでした。

今日の午後には右足のカテーテルも予定通り抜いてくれそうで、そしたら一般病棟に行くそうです。こちらの足も細いとはいえ、「動脈ですので痛いですよ」とくぎを差され、昼前に岩田Drによって抜かれた。先生が、血が止まるまで30分ほど、自分の手で押さえての止血である。先生の手の温もり、優しい力の入れようで、こちらは案外痛くなかった。(ずっと押さえ続ける先生の愛情を感じずにはいられない)血が止まったら、傷口にガーゼのボールを乗せて、その上にかまぼこ位の大きさの鉄のかたまりを乗せテープでガッチリ止める。そして2時間の絶対安静にはいる。身動き禁止!先が見えたせいか、慣れたせいか、そんなに苦ではなかった。

2時頃、お世話になった看護士のみなさんに見送られて、ICUの出口で、グリーン車?のベッドから、普通車のパラマウントベッドに乗り換えて、エレベーターで6階の「666号室」へ。いい番号だ。

元気になるための第1歩が始まった。部屋に案内してくれたのは、婦長さんだった。テキパキとして、安心して身を任せることが出来そうで、それに美人なのがよい。後々わかることだが、看護婦さん(この階は女性ばかり)達て、みんな使命感があり明るく元気で、やさしく、女性の良いところをみんなが出しきり、はつらつとしている、顔までみんな美しく、よほどの年寄りでない限り、生きる望みを看護婦さんによって呼び覚まされると思う。

まだまだベッドで上を向いたままだが、まもなく止血のテーピングがとれたら、また横を向くことが出来るのでもうすこしのしんぼうだ。面会時間は、こちらは、3時から7時まで、その時間は妻がいてくれるので、心強く助かる。夜は眠れなかった。時計がないので、時間がわからず、安静に、心臓に優しく、と言い聞かせながら、朝を待つ。


3月2日(日)おしめはずれる。今日からパンツだ!

今日は楽しみにしていた長男の音楽の発表会の日である。こうなってしまったので、長女にビデオの撮影を頼み元気になってから見たいと思う。

今朝、オシッコの管をはずす為の練習にはいる。朝食後に大便がしたくなったので、看護婦さんにポータブル便器を持ってきて貰う。下痢気味なのが少しだけ出る。その時看護婦さんが「もう管もはずしましょうか」と言われて、はずしてもらった。シュルシュルと言う感じで、一気に下半身が軽くなった。

だんだん自分の体が取り戻せて、希望がわいてくる。今まで人任せだった小便の管理を自分でするようになって驚いた。今日1日で2500CCの小便が出ていた。今日は日曜日なので、妻が、朝の10時から、夜の7時までいられる。とても嬉しかった。

今回の入院は、会社は仕方ないけど、友人から親戚すべての人に内緒にしている。もし誰かから田舎の年老いた両親の耳に入ったら、どんな結果になるか心配だからである。だから元気になったときに、友達にネットで公開しようと考えた。

又一つ明るいニュース。今日から自分で歩いてトイレに行けるようになった事と、30分程座っても頭がしびれなくなった事。そしてテレビが見られるようになった事。今日の「グッドラック」は一人で泣いてしまった。

夜には、腕の点滴の針だけ残して、点滴も無くなった。ポールともお別れだ。(点滴をつり下げるためのあのじゃまな機械)私が勝手にポールと名付けた。看護婦さんに「私の相棒のポールをよろしく」と、引き取って貰ったが、笑ってくれるだけのユーモアは看護婦さんみんな持っていて楽しい。

寝る前歩いてトイレに行ってみたが、ポール君がないのは、なんとも普通みたいで嬉しかった。でも、杖の役目もあった事が分かったのは、発見だった。寝ようとしたが、ほんまに快方に向かっているのか心配になり、少しどこかが痛いだけで寝ることも出来ず、少しこれを書いている。だいたい9時に寝なさいなんて無理だよ。

ドラマにでてくるような、あらしの夜中に病状が急変し家族が呼ばれると言うようなことがないように祈りながら、安静にして寝ます。(今夜はいい天気のようだし!)


表札
河内総合病院6階循環器病棟
表札

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