日本一周自転車旅行 大阪へ




平和の子の像

・昭和39年9月3日〜4日

・宿泊地ー広島平和公園
・走行距離ー357キロ
・使用金額ー292円
・天気ー晴

タイヤの虫が悪くて、直していて遅くなったが、9時頃大分を出発。

まず、別府の町にびっくりする。温泉町らしく、安い旅館から、高いホテルと、上下の差の大きいこと。俺には関係ないけど、食堂でも同じだった。

別府を過ぎた頃から、雨になる。下関まで降り続く。心細いけど良い気持ちだ。22時頃パラパラと憎い雨が又降ってきた。寂しい山道だったので、民家の軒下で雨宿りをする。

もう夜になっても寝ていられない早く帰って布団で寝よう。眠るなと自分に言い聞かせて、雨の止むのを待つ。小降りになったので、走り出す。

5時頃、昼夜食堂で、早い朝食をすることにする。眠くてかなわんけど、もう少しだから、頑張って走らなくちゃ!来るときに世話になった静食堂にお礼と、無事に九州を回ってきたことを報告に行く。氷みぞれをご馳走になって嬉しかった。とにかく、タダでもらうのはうれしい。俺ははたして他人にこんなに親切に出来るかと、ふと思う。


広島 錦帯橋

広島 平和公園

広島に着いたときはもう薄暗く、平和公園は、静けさの中でまるで俺を引き込むような感動を与えた。今日はもうこれ以上走ることは出来ない。

消えることのない平和の火の前の芝生の上で寝ることにする。たくさんの人が一瞬にこの辺で死んだのかと思ったら、胸がジーンとして、なかなか寝ることが出来ない。それに不気味な気もする。戦争の痛々しさにいたたまれない気持ちだ。そして、この公園を全部自分のものにしてしまいたいような、誰にも見せたくないような、変な気になってくる。

途中、宮島を通ったけど、わざわざ行く気にもなれず、四国に行く気も既に無くなり、一日も早く大阪に帰りたい。

記録のことを思えば、船で数時間の、四国をほんのちょっとでも走ればいいけど、俺はそんなことをするために来たんじゃないから、記録などへの未練はない。

山口県原狭郡 静 食堂

平和公園にて

今は知ってか知らずか、人も空も川も町並みも新しく、まるで生まれ変わったように生き生きと動いている。

でもこの公園に一歩踏み入れたとき、戦争の恐ろしさ、むごさを、毛が逆立つほど感じた。

夕暮れの孤独の中で、寂しく映える原爆ドーム、永遠に燃え続ける平和の灯。不気味で寂しい光景を見せつける。原爆の子の像の鶴はなぜか俺をせめつける。

こんな思いはもういやだ。戦争はもういやだ。

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岡山 後楽園

・昭和39年9月5日〜6日


大 阪

広島を4時頃出発。

岡山の後楽園に着いたのは夕方で、雨のためか暗くなっていた。

ちょっとして本降りになった雨は、まるで俺の汚い身を洗ってくれる。一昼夜走り続けて、神戸に着いたら朝になった。ポートタワーに行き、少し休むことにする。

食堂に入ったのは良いが、急に力が抜けてしまい、旅の終わりを感じる。


後楽園

後楽園入場券

最後の力を振り絞って、一生懸命に走る。

そして、大阪に着いた。

ちょうど8000キロ、73日の旅は終わった。

俺の日本一周は終わった。いい気持ちだ。ゆっくり寝ることが出来る。

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自力

1964年6月26日より9月6日まで、大阪を出発して、大阪に帰り着くまでの73日、焼く8000キロの道は遠く寂しく、つらかった。バス停に、道端に、海岸にと、野宿をし、トラックに船、駅や学校それに公民館と、いろんなところでたくさんの人達の好意で寝ることが出来た。

終わってみると、それぞれの土地で、それこそ日本中で、素晴らしい人達との出会いです。思い出になったのはもちろん、小生の生きる道しるべになってくれた人達がたくさん現れたことが、一番の喜びです。お世話になった人はもちろん、迷惑をかけた人、小生のためでないだろうが、トマトやナシ、カキやスイカを育ててくれた畑の持ち主の方々にもほんとうにお世話になりました。(すいませんでした)

心よりお礼を言います。年を重ねても、この青春の1ページを忘れることなく、もっと何かを積み重ねていこうと思います。

ほんまに おおきに

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