楽しく生きる、振り返ると道が  28才〜29才


♪♪〜〜大阪に舞い戻り、運転手!!(^o^)〜〜♪♪

昭和49年 大阪に舞い戻り、八尾市の運送屋の気楽な面接で、運転手として働くことになった。

どれほど気楽かと言えば、面接のその日に「名古屋 に走ってくれるか?」と言う具合で、古い2トン車を与えられ道も何も知らないのに、その日の夜には名古屋に走っていた。

何とか教えられた通りに配達は出 来たが、八尾市にたどり着いてはたと困った。会社に戻れないのだ!

何故なら車庫には面接の時、歩いて一度行ったきりで、すぐ車に乗ったので土地勘もなく、会社の住所すら知らないのだから、そそっかし度100%!

狭い一方通行の出口付近に会社はあり、陸橋の上に車を止め(迷惑千万)駅を見つけ、面接で辿っ た道を思い出し、見当をつけて適当に走ったら、なんと会社の横にでた。

一方通行をほんの少しバックして無事「初日の任務完了」天才!

寮があり、部屋は二人部屋で、案内 された部屋は一番端の6帖間である。同居人は何とも怪しげで、ギョロリとにらんだきり、ほとんど口の訊かない難しげな男だった。

一瞬「これはマズイ男と同室になった な」と思ったが、この男とは田舎が近くであることが分かってから、打ち解けて話すことができるようになった。

分からないものでこの男、実に頭の良いやつで 、頭の中には正確に日本地図が入っていて、どの得意先を聞いても正確に道を教えてくれるので、どの運転手も彼が帰るのを待って道を聞く程だった。

嘘は言わ ないし意地悪はしないし、まず怒らない男だった。何を頼まれても嫌だとも言わない付き合いのよい男で、何処に遊びに行くときも彼の顔が必ずあるほどで、彼 と知り合った事が一番うれしい出来事だった。もちろん今でも一番の友達だ(と言うより身内)。


紀伊長島でキャンプ


大台大杉谷でキャンプ

当時は作業服のような物もあったと思うが、ほとんどの人は私服 で仕事をしていて、特に私は写真のような変な格好で仕事をして、最初はとやかく言っていた会社も得意先も、いつの間にか何も言わなくなり、当時では珍しい 外国人の運転手を雇っているように思っている得意先までいた。

私も悪のりして片言の日本語で「ドコに〜ニモツをオロ〜シマスか?」などと聞くもんで、と かく偉そうにしてる得意先の人たちも、つられて片言訛りの日本語で、「ココ〜にオロシテクダ〜サイ」なんて調子で、親切に対応してくれたり手伝ってくれ たり(手伝ってくれたりしないものですよ)で、日本人の親切さを再確認する場面に何度も出くわしたものです。


紀伊長島でキャンプ


会社の仲間と

今は名前が変わってしまったが「東洋アルミ」と言う会社の荷物を預かり配送するのが仕事で、当時はまだ珍しいアルミのガスマットやアルミホイルを作っていた東洋アルミは、それこそ全国の問屋、小売店に悲鳴をあげるほど出荷してて、静岡から九州までを私の勤めた会社が受け持ち、昼間は大阪、京都、神戸市内の配達、その後夕方に、静岡や名古屋、広島、九州各県の荷物を各自4〜8軒分積み出かけると言う、今では考えられないような過密な労働をしていた。

きつい仕事だが、私も若いし他の人たちも何らかの事情がある人が多く、他人の詮索などせず 皆お金のために一生懸命だった。

でも今考えてみると、良い人間が集まっていたなと思っている。休みの過ごし方も、ほとんどの人が寮で住んで いたので、楽しみといえば競輪や競艇、パチンコのたぐいだった。そうそうあの頃は暇さえあれば行きつけの喫茶店でたむろしていて、今だから言えるが花札賭博を店の奥で毎日誰かがやっていた。私は勝負事が嫌いで(本当は負けるのが死ぬ程悔しいので、たとえ子供とのトランプ遊びもしない)見てることがほとんどだった。

しばらくしてギャンブルも下火になり、今度はアウトドアーの遊びがはやりだし、会社にテントを買ってもらいキャンプに行くのが大流行となった。

行き先のほとんどが海で、日本海と三重県の長島町の磯には独身はもとより既婚者まで奥さんをほったらかしては参加して、ワイワイ楽しんだものです。

普段きつい仕事をしていても毎週の様に出かける。若いって実に楽しい!青春の最高の1ページになっている。

あの頃の写真を見てると懐かしさとともに、精一杯生きた自分に「ようやった!」と声をかけてやりたい。


日本海 丹後半島


汚い男のシンクロ

当時のことを思い返すと、よく覚えてはいないが、入社した頃はまだ名阪国道はなかったように思う。夕方大阪を出発し、1号線の鈴鹿峠を越えて浜松辺りでいつも大渋滞にかかりる。その頃にはもうそろそろ夜が明けてきて、焦って静岡まで走ったのを覚えている。もちろん東名高速などなく、ほんのわずかの仮眠がとれるだけだった。

九州などはもっとひど く2号線はいつも渋滞! 1時間2時間の渋滞はまだすいてる方で、事故などで4〜5時間の渋滞になると、運転手にとってはその時間が貴重な仮眠タイムで、みんな寝て開通を待っていた。そんな訳で2号線は長い長い駐車場と化してしまい、規制が解除されても、道路で寝ている運転手を起こして回るのがパトカーの警察官の最後の仕事だった。

後には少しずつ高速道路が延び、だんだん目的地が早くなって楽になったが、その分会社の経費がかかり、運転手の取り分も少なくなり「昔は良かった」と古い運転手の愚痴が聞こえるようになってしまった。

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