楽しく生きる、振り返ると道が  24才〜27才


♪♪〜〜ヨットで暮らすゾー!!(^o^)〜〜♪♪


愛艇"いなんくる"

宇久井(和歌山県)の海水浴場の沖合にヨットを係留して、昼間は回りの磯で潜ってサザエやアワビを捕る毎日だった。

その頃はでっかい貝がごろごろあり、誰も何も言わなかったので(今は魚協がとてもうるさく、貝や伊勢エビ、コンブに至るまで密漁として取り締まっているから要注意)まるで回りは私の庭であり、豊かな食料庫であった。

大変なのは用事や買い物で陸に上がる時で、頭の上に忍者よろしく着る物を乗せ、泳いで上陸しなければいけなかった事である。

後に造船所でテンダー(足船)をプレゼントしてもらい、服を着たまま買い物や友達に会いに行けるようになった。

時々知り合いになった漁師さんの舟に乗ってアルバイトをさせてもらった。

漁船は水揚げの何パーセントかが貰えるシステムで、よその舟では一晩で十万円とか、二十万円とかもらってる時でも、私の乗った舟は何時も水揚げゼロで、おかずを貰って帰るのが、何時ものパターンだった。

谷さんと言う船長さんは年寄りで仕方ないと言えば、仕方ない結果だが、とても良い人で、よく御飯を食べさせてもらったし、しまいには「息子の部屋が空いてるので家で寝なさい」と、ただで下宿させてもらい、食事も毎日食べさせてもらった。

もちろんお金は無いので、ちょとした手伝いをするだけであった。

何回も漁船に乗った。しかし、魚が捕れず分け前をもらった記憶がないが、とても優しくしてもらい、いごこちがとても良かった。

T(^o^)″!!機械を販売修理する会社にお世話になる!!T(^o^)″


本日の収穫さざえ

その後、友達の紹介で新宮市の、農業機械から集材機まで、何でも販売修理する会社にお世話になる。

冬はここの倉庫の敷地にヨットを置かせてもらい、その中で寝泊まりし、仕事をした。

機械修理などしたことはなかったが、素人ながら、すぐに何とか仕事を覚え、家庭的で気楽な社長だったので、楽しみながら結構役に立つ仕事をしたように思う。

なかでも、山の上の現場に集材機を修理に行った時の事は忘れられない。

一人で治す自信などなかったが、一人で行く羽目になり、2時間ほど山登りして現場に着き、案内してくれた人の手前、ハッタリをかまして修理に掛かった。

見た事も無いようなデッカイ発動機だったが、今までの応用と気合いとで、何とか修理する事が出来た。

しかし、作業中に真っ直ぐ抜けるはずのハンドルが、引っ掛かって私の前歯を直撃、前歯三本を折る怪我をしてしまった。

山の上にはもちろん歯医者は無く、水も無く、血みどろで、それでも何とか修理を終え、下山して真っ先に歯医者に行った。

歯医者さんは、「唇は切れてなく前歯が折れている、こんなおかしな怪我は労災扱いは出来ない、仕事中の怪我でなく喧嘩をしたんだろう」と、あくまでも喧嘩説を主張。仕方なく山を案内してくれた人に来て貰い「たしかに山の上で私の目の前で怪我をした」と言う事を証言してもらい、何とか治して貰ったが、私の前歯は若くして挿し歯になってしまいました。


罰ゲーム

しかしこの会社は、遊んでいる友達を連れて、山奥の仕事の現場に出かけたりする事が出来る、呑気な会社であったので、毎日楽しく勤められた。

会社には四トン車もあり、ヨットを上げたり下ろしたりが無料で出来る、ありがたい職場でもあった。

又、タイヤショベルを修理をする都合、回送したりするので免許が要るようになり、会社から神戸製鋼の修理実習と大特の運転免許を取らせてもらった。

しかし、それから少しして、店が土建屋の不渡りをくらい一夜で倒産してしまい、会社の仲間は(倉庫は店とかなり離れていた)挨拶もないまま、みんな何処かに行ってしまった。未だに誰とも再会出来ていない。

T(>_<)″!!廃品回収の仕事をする!!T(>_<)″

次の仕事も友達の紹介で、今度は廃品回収の仕事をする。

会社の人達は若い私に何もこんな仕事をせんでもと同情してくれたが、何もこだわらない性格の私はむしろ大事にされて、とても機嫌良く仕事をしたもんだ。

最初商店街を回り段ボールを集める時は、流石知り合いに会わないよう祈ったもんです。段ボールなど引き取っても、お金を払った覚えが無いから、当時は無料で引き取ってたのだろうか?

はっきり覚えているのは、列車(当時は国鉄)の掃除の時に出るアルミカンを駅に引き取りに毎週行ってたが、ニトン車いっぱいで、千円か二千円かを払った覚えがある。やはり汚い仕事は儲かると思ったのが印象に残っている。

外回りをしない時は段ボールをプレスしたり、自転車を細かく切断したり、出荷の積み込みをしたり、おしゃべりなおばちゃん相手に案外楽しい毎日だった。

仕事を辞めるきっかけは覚えてないが、社長や奥さん、そしておばちゃん達に残念がられたが、半面「こんな仕事をいつまでもしてたらアカン」と言って送り出してくれたのだった。

T(^_-)″!!神奈川へ!!T(^_-)″

そして昭和48年今度は神奈川の友達の所に転がり込む。

その日車を持ってる後輩も一緒に行きたいと言うので、友達と後輩、その彼女と私と言う奇妙な四人組が、小さな軽四で新宮市を出発、相模原の汚い一間のアパートで、三人の男と一人の女性との目のやり場に困る生活が始まった。

さすがしばらくしてカップルは出ていったが、友達が瓦屋をしてたので、私も親方に頼んでもらい、一緒の仕事をすることになり、汚い男の共同生活が始まった。

それは、ほんまに楽しいものだった。食堂のアルバイト女学生に同時に惚れたりもしたが、おおむね仲良く一年ほど過ごした。

車(クラウンの中古車)も半分づつお金を出して買って、休みにはよくドライブに行った。一度などは雨の新宿のデッカイ交差点の真ん中でエンストしてしまい、必死で交差点の外に車を押し出し、JAFにその止まっている場所を上手く伝えられず、何時間も待ったことも・・・・


アルバイトで屋根葺き手伝い


華厳の滝にて 中山氏と

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